今夜あなたの夢を見ます

自閉症スペクトラム障害と統合失調症を抱える私が、唯一心的どすっぴんでいられるところ。

これは愚痴になるのか?

 

一昨日で退院して1ヶ月が経ちました。

スケジュール帖を見ていてその事に気付いて、絶望してしまった。退院の際に病院の職員さんに言われた、「今日から3ヶ月間は再入院できないからね」って現実を思い出したから。つまり、あと2ヶ月はかかりつけの病院には入院できない。

10年近く診てもらっている主治医以外のドクターに自身の内面をさらけ出すなんて、容易にできることでなければ実行したくもないし、この先2ヶ月は本当に何が何でも入院に繋がる騒ぎを起こすわけにはいかない。

でも、毎年年末に大きく調子を崩す傾向にある私にとって、それは凄く凄く高いハードルなのです。それゆえに絶望。

 

その日は物事への意欲を一切失いつつも、なんとか晩ご飯作りながら旦那の帰りを待ち、タイミング見計らって唐揚げを揚げていると旦那帰宅。上述の絶望とそれに伴う不安を吐き出したら、何かしら安らぐ言葉を返してもらえるかな、と淡い期待を抱いた私は相変わらず学習能力が無かった。

「なんで再入院前提やねん」と笑われ、いくつか言葉を交わした後、旦那バチ切れ。

いつもと同じパターン過ぎて今なら笑い話にできるけれども、毎回その渦中にいる時は辛くて辛くて仕方ない。号泣しながら必死になって唐揚げ揚げてた。

 

…ここまで書いて今日は終わります。続き書くかどうかはわかりません。敬具ー。

無題

 

雨の日が続いています

ずっと寒くて 暗い毎日

お天道様が懐かしい

でも 別にいいかな、なんて

 

流れる時間に身を委ね

私はいつも波に乗る

沖に流され

岸に流され

「自分じゃ変えられないから」

そう言い訳して ここはどこ?

 

晴れの日が続いています

ずっと暑くて 眩しい毎日

濡れそぼる木が懐かしい

でも 別にいいかな、なんて

 

流れる時間に身を委ね

私は今日も波に乗る

沖に流され

岸に流され

「自分で決められるでしょう?」

ほら右手には 正常なコンパス

 

今の自分に甘んじて

今の貴方に甘んじて

変わることも 変えることも

その必要性から目を背け

また私たち 罪を重ねる

背負った十字架 数え切れない

 

雨の日が続いています

ずっと寒くて 暗い毎日

お天道様が懐かしい

でも 別にいいかな、なんて

 

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結婚して4年目に書いた久々の散文でした。

掘り出し物レビュー⑥

 

【四畳半/GADORO】
ゴリゴリのHip Hopよりもメロウなそれに心惹かれる私にとって、「フリースタイルダンジョン」は興味の対象外だった。ただ、相方が熱心に視聴している傍で、字幕を追い掛けては「みんな凄いなぁ」とかぼんやり思う程度に過ぎなかった。しかしながら、そんな中でも好きな声の持ち主が現れると勿論ディスプレイを注視するし、且つ韻の踏み方が私好みだったりすると、秋の空よろしく移ろいやすい心をもつ私の中でその存在は興味の対象でしかなくなる。
それがGADOROだった。
声も歌い方も見事に私の胸ぐらを掴んで、離す素振りなど一向に見せない。「ハートを射抜いた」なんて生半可な表現は全くそぐわない、もっと横暴で確実な出会いだった。
それから暫くして手にした、GADOROのアルバム「四畳半」。YoutubeでMVを視聴済みだった「クズ」が目当てで購入した。今までの個人的な経験から「Hip Hopのアルバムは捨て曲も多く収録されている」「だからクズが聴けたらそれだけでいい」と考えていたものの、その予想は裏切られた。―期待以上の作品だった。
GADORO自身がTwitterで発言していたように、どの曲も歌詞が突き刺さってくる。歌い上げられている様々な色をまとったリアルな言葉たちが、いちいち感情を揺さぶる。勿論アルバムの中には、私の苦手なゴリゴリの曲もある。それでも、全部聴きたい、もう一度聴きたい、もっと聴きたい―そう思わずにはいられないくらい、受け止めるのが心地よい言葉たちが並んでいる。
歌詞に物足りなさを感じる人も中にはいるだろう。「自分のことしか歌っていない」と。しかしそれが、それこそが、GADOROの“今”であり、歌いたかったことなのだと思う。今日、つまりこの「四畳半」をリリースするに至るまで、GADOROが積み上げてきたものがひとつひとつ鮮明に描かれているような気がするのだ。そして同時に、それはきっととても幸せなことなのではないかと思う。自分自身の内に秘めているものを、外界に一寸の狂いも無く吐き出し、表現することは容易ではない。自分の中でくすぶっているものが何なのか判然としない人や、その正体に気付いてはいても上手くさらけ出せない人の方が、圧倒的に多いと感じているのは私だけではないだろう。
最後に、自分のスキルを磨く為の手っ取り早い方法の一つは、他人を真似ることだろう。それは何もラップに限定されることではない。GADOROがチプルソを意識的に真似ていたのかは私にはわからないが、もし仮にそうであったとしても、何故今そのことでとやかく言われるのか理解できない。「チプルソの物真似 今じゃとっくに超えてるその壁」とGADORO自身が歌っている時点で、この話題をわざわざバトル上に持ち出す必要など無いのではないだろうか。「上手くなりたい」、その一心で今まで過ごしてきたであろうGADOROの一通過点に過ぎないのに。つまり、本当に過去にチプルソの真似をしていたとしても、それは向上心所以のもので、それが現在のGADOROを作り上げた一つのピースとなっているのだ。そう考えると、「真似た/真似ていない」の論争に巻き込まれない人間なんて、どこにもいないと思う。
唯一の不満は、オフィシャルのネットストアで買えば「未来」という未収録曲も入手できたということに今日になって気付いたこと。ま、Youtubeのお世話になることとしよう。 #四畳半 #gadorof:id:fuuka1951ck:20171014201814j:image

掘り出し物レビュー⑤

 

【キミのかほり/syrup16g
昨年の秋、短い期間ではあったが、私は精神科の閉鎖病棟に入院していた。それは『自分は大切な人達と大切なものを分かち合って生きている』と心の底から思えるようになっていた矢先の出来事で、そのことで阿呆のように舞い上がっていた私が気付いた頃にはもう手遅れだった。既に、誰も、何も、残っていなかった。
それは錯覚かも知れない。単なる勘違いかも知れない。それでも、その時の私は“孤独”だけを感じ、全てのあらゆる糸は切れ、現実から逃れようとした。大切なものを自ら壊した、という現実から。
何もかもを失ったと感じて以来、私がこの曲を聴く回数は激増した。ふとした瞬間に「キミ」という名の“正常な社会”が持つ特有のかおりを思い出しては後悔や自責に頭を抱えたり、時には離れてしまった大切な人を「キミ」に置き換えて記憶を辿ったり。何とも非生産的で無駄でしかなく、寧ろ自問自答に駆られて尚更沈んでいってしまうようなこの行為ばかり繰り返していた。今から思えば、それは一種の自傷行為だったのかも知れない。だから毎日飽きもせず、この一曲から離れようとしなかったのだ。
本当のことだけが知りたくて、だけどその為には引き裂かねばならず、しかしそんなこと到底無理で、引き返そうとしても誰に許しを乞えばいいのかすらわからない。  そんなちっぽけな世界で悩み込んでいる自分に苛立ち、『忘れよう』『忘れなきゃ』と自己暗示をかける。最後に何が残る?
嘗て当たり前だった“日常”には、「キミ」のもとへは、もう引き返せないのだろうか。まだ、引き返せないのだろうか。
そんなものに一喜一憂させられぬよう、踊らされぬようには、忘れるしか手立ては無いのだろうか。
この曲は、誰しもが感じるであろう感覚、或いは感情を表しているように思う。コントロール不可能で、どうしようも無く行き場の無い個々の気持ちには矛盾も付き物だろう。
そのもやもやを解消できるような曲ではないと思う。そんなことの為の曲ではないと。ヒトは悩んで生きていくものなんだろう。悩み、考えた末にしか結論は出てこない。結論を出したいのならば、悩まなくてはならない。これは、たった一観点だけにしか通用しないかも知れないが、いい意味で“悩ませてくれる曲”と言える気がする。
最初は「切ない曲だなぁ。」程度かも知れないが、聴いていくうちにどんどん熟れていく。この曲とともに熟していくことができれば、個々の心の外側から内側に向けて射し込む光は温かな光にすらなりえるだろう。
#キミのかほり #syrup16g #delayedf:id:fuuka1951ck:20171014201703j:image

掘り出し物レビュー④

 

ワンダーフォーゲル〜ばらの花/くるり
くるりのベストアルバム、「ベスト オブ くるり Tower Of Music Lover」。その出だしを彩る二曲は、私の中ではいつも“ふたつでひとつ”。互いに引き寄せあったりしているわけではなく、ただそっと、その一瞬一瞬を共有している。二度と訪れることの無い時間―或いは空間の中に、ずっと共存しているのだ。
それは「寄り添う」という言葉も当て嵌まらない。その対象が自分以外のものであるという自覚が無ければ、「寄り添う」ことはできないから。
中学三年の時、一人の友人がラジオで聴いたこの二曲をうろ覚えながらに口ずさんで教えてくれたのが出会いである。その友人には悪いが、当時は一体何が良いのか全くわからなかった。彼女の音痴っぷりが祟ったのだと言っても過言ではない。だから初めは音源を探すことも無く、ただ「なんていう人の歌なんだろう」と思う程度だった。友人からは、アーティスト名すら聞きだしていなかった。
そんな記憶も薄れてきた頃、人生で初めて通い始めた塾で仲良くなった先生が授業後の休憩時間に「くるりって知ってる?」と問い掛けてきた。私はただポカンとするだけ。話していくうちにそれが京都出身のバンドの名前だと知り、翌日学校で例の友人に同じく問い掛けてみた。そこでやっと、この二曲とそれを作り上げたバンド名がリンクした。
また塾に向かい、先生に「くるりの曲でこんな曲ある?」と私は友人を見習って口ずさんだ。「僕が何千マイルも歩いたら、って歌詞!」「イントロでピアノがこんなメロディーやった!」と、その時の私にとったら必死になって伝えた。そして、今から思えば奇跡のようだが、先生はその次の授業でMDを一枚譲ってくれた。その中には、私がなんとか汲み取って欲しくて一所懸命歌った曲がふたつ、ちゃんと収録してあった。
それから、七年の月日が流れた。決して短くはない期間である。その間に私は何か変われただろうか。このくだらない自問自答はいつまで経っても答えが出ず、最後は必ず情けない諦めと後悔がやって来る。私は何も変わっていない。七年前と同じまま、無知で、子供で、他人任せな人間である。それでも、希望が見える瞬間もある。何の根拠も無いくせに矢鱈と輝かしいその光は、変われなくてもいい、変化だけが“成長”ではない、と優しく私を照らしてくれる。 「変わる」ことが「良い」ことだとは限らない。それと同時に、全ての「不変」が「悪い」ことだとも言い切れない。
この二曲は、七年前と比較したって何も変わっていない。初めて耳にした時から今の今まで、ずっと私の中に穏やかで暖かな光を灯してくれている。その明るさや温度を変えることも無い。いつでも同じ優しさを以て、時に真っ暗闇になった私の中を明るくしてくれる。そしてそれはこれからも変わらないのだろう。何一つ変わること無く、いつまでも私の心の内で暮らしている。
音楽を始めとし、芸術には十人十色の捉え方があって当然だろう。勿論、この二つの曲が何かを変える為の良い機会になる可能性も大いにあると思う。しかし、「変化」を促したりもたらしたりする類の曲ではない、と私は勝手に決め込んでいる。急かすことも無ければ追い風になることも無いが、その代わりにずっと傍にいてくれる、自分に最も相応しい伴侶のような曲だと。
離れてしまうのではないかと怯える必要は無い。
なぜなら、“ふたつでひとつ”なのだから。私の中で「ワンダーフォーゲル」と「ばらの花」がそうであると同時に、「私」とこの二曲――「思い出のうた」も、いつだって“ふたつでひとつ”なのだ。
#ワンダーフォーゲル #ばらの花 #くるり #towerofmusicloverf:id:fuuka1951ck:20171014201551j:image

掘り出し物レビュー③

 

【Main Street Electrical Parade/Shinichi Osawa】
誰であれ一度は耳にしたことがあるだろうメロディー。Disneyの「MAIN STREET ELECTRICAL PARADE」をmondo grosso大沢伸一がハウスリミックスしたもの。自らDisneyに近付くことの少ない私が「House☆Disney」と銘打ったコンピレーションアルバムを購入したキッカケがこの曲である。
出会いはyoutube。兄からの薦め。
そんなどこにでも落っこちているような出会い方であっても、それが心を震わせワクワクさせてくれる音楽であることに違いは無かった。一人の男と一人の女がどんなに奇跡的で素晴らしい出会い方をしたとしても、その二人が死を迎えるまで幸せに過ごせるとは言い切れないように、逆も然りなのだ。何の変哲も無い出会い方をした男女が、一生涯共に生きてきた例を私は知っている。  そしてこのくだらない屁理屈は、音楽も然り。出会いの凡庸さと、その音楽が脳内で自動再生される回数の少なさは決して比例するものではない。
夜、一日の終わり。その日の夜は、勿論もう二度と訪れない。 「終わりよければ全てよし」という言葉にもあるように、どんなに悲惨な一日であっても、その終わり―夜という時間が心地良いものとなれば、なんとなく安堵して眠りにつけると私は思っている。
そんな、「夜」のイメージが湧く曲。
一般的に“パレード”というものが一日のどんな時間帯に開かれるのか私にはわからないが、この曲からは夜のパレードの匂いがする。  たとえそのパレードを見ている全ての人達がどんなに最悪な一日を送った夜だったとしても、私がこの曲を聴くことにより頭の中で想像するパレードに入り込めたなら、みんながキラキラした笑顔を浮かべられる気がする。「こんな一日早く終わってしまえばいいのに」なんて想い、吹き飛んじゃうような。それと同時に「この日が終わらなければいいのに」と思えるような。
サビに行き着いた時に見えるそのパレードは、本当に世界が開けたようで、眩しい。思わず手で目を覆いたくなっても、やっぱり何度も繰り返し見て、なんだか頬が緩む。  決して具体的に何か良いことがあったわけではない。なのに、そのキラキラ光る光景を目にすると、嬉しくなってしまう。夜なのに明るくて、それはみんなが笑っているからで、その日遭遇した嫌な出来事も醜い感情も、全てプラスの方向に進んでいく気がしてならない―。 そんなパレードが実在するならば、私はそのオーガナイザーになりたいと思う。その場に来てくれた色んな個性を抱える多くの人達、それは友人だったり、家族だったり、当然全く見知らぬ人も大勢いるだろう。その一人ひとり全員の顔に笑顔を咲かせられたなら、私の抱える小さな蕾も花開くかも知れないから。そして何より、そんな力がまだ私に残されているのなら、大切で掛け替えの無い人の笑顔が枯れてしまっても、また美しく輝けるように支えることくらいはできるかも知れないから。
穏やかな力を秘めた、幸せな曲です。
#mainstreetelectricalparade #shinichiosawa #disneyf:id:fuuka1951ck:20171014201439j:image

掘り出し物レビュー②

 

【HAPPY TURN/ポリバケツメガホン】

キラッ。ピコッ。
初めて耳にしたのは、難波のタワーレコード。試聴したわけではなく、その時たまたまこのアルバムが店内で流されていた。 いつもならヘッドフォンをつけたまま店内をうろつくのに、その日はたまたまそれを着けていなかった。当然耳には店内のSEが入ってくる。それが、これだった。 なんか矢鱈キラキラしていて、普段私がよく聴くロックやオルタナのようにガツガツもしていなくて、なんだか可愛いな、そんなことを思いながら、その日はCDを探すこともジャケットを見ることも無くタワーレコードを後にした。 それから月日が過ぎても、ふとした瞬間に思い出す。何度も何度も「欲しいなぁ」「次行ったら買おうかなぁ」なんてことをぼんやりと考えながら、時には完璧なまでに彼らの存在が頭に無い状態で、日常を暮らしていた。
なんか最近新しくて好い音が無いなぁ、見付かんないなぁ。 そんな思考を毎日巡らしていた。 段々、自然と熱は冷めていった。
先日、たまたま友人とタワーレコードに行って、ポリバケツメガホンのジャケットを目にする機会があった。本当のところ、ジャケ買いとまではいかない外見だったのに、私はそのCDに声を掛けられた気分に陥った。熱が、息を吹き返した。 元来ハウスミュージック等の4つ打ちにも心を開いている私は、ロックな4つ打ちが好きで、それでも選り好みをしてしまうからなかなかストライクゾーンど真ん中に飛び込んでくる曲は少ない。
久し振りに、ど真ん中。
CDの帯にも記載されていたように、そして私が冒頭にも書いたように、キラキラピコピコしていて、可愛いのに切ないメロディーラインが、じわりじわりと私の頭の中を埋めていく。それは今も続いている。 「オシャレ」という一言では言い表せない。 「可愛い」とも少し遠い。 ただ本当に優しくて、聴いていて音に包まれる感覚が心地良い。なのに、状況に因れば涙を流すキッカケになる。その涙は、最初は悲哀や後悔から生まれた涙ではあろうけれども、彼らの作品に寄り添っていると自然と暖かな涙へと変貌を遂げる。劇的に変わるわけではない。自然に悲しみは緩和され、気付けば涙で濡れていた頬も緩んでいる。 誰か大切な人が寂しい瞳を纏っている時は、偶然この曲達と知り合って欲しいと思う。私から薦める、なんて横暴なことなく気付いて欲しい。
どれだけ流しても枯れない涙でも、止まることはあると。 濡れた頬を乾かす音が、ここにあるのだと。
真っ直ぐ耳に飛び込んでくる澄んだ声、それに付いて届く、分厚くて柔らかな電子音。久々に故郷に帰ったような気分になる。初耳なのに懐かしくて、だけど新しくて、ほっとするのに胸が高鳴る、そんな、大切な気持ちを思い出させてくれる。
キラッ。ピコッ。
#ポリバケツメガホン #happyturnf:id:fuuka1951ck:20171014201322j:image